2017年12月24日、私は横須賀中央教会で洗礼を受けた。
イエスさまを信じた時点でクリスチャン、洗礼は神さまの前で古い自分を脱ぎ捨てて生まれかわること。
わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である。友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。
と、イエスさまは弟子たちに言う。
愛の定義の頂点に位置する愛、最大の愛、というわけだが、果たして「友のために死ぬ」場面が現代に起こりうるのだろうか?
いゃ〜堅苦しい前置きだった😅
しかし、私は50年近く前に、イエスさまが「最大の愛」として定義した場面に出会っていた。
ベルサイユのばら第2巻 P26,P31(Kindle版)のワンシーン。
ルイ16世に嫁いだばかりのマリー・アントワネットのワガママから乗馬に付き添うことになったオスカルとアンドレ。アントワネットが乗った馬にアンドレの不注意から馬が猛突進。オスカルが捨身でアントワネットを助ける。
その後、宮廷でルイ15世がアンドレの逮捕(死刑)を宣告、それを阻止するのがオスカルだ。
アンドレの責任は主人である私の責任、まずここで、このオスカル・フランソワの命をたってからにされるがよい!
そして、フェルゼンも言う。
悪いのはアンドレではない、私も正義のために死ねるぞ、オスカル。
こうして、アンドレはことなきを得て、心の中で呟く。
オスカル…
おれはいつか…
おまえのために命を捨てよう…。
子どもの時も、そして今も、この場面で泣いた。
ボロボロ泣いた😭😭😭
オスカルの、アンドレに対する「命」をかけた友への「愛」、そしてアンドレの「命」を捨てる覚悟は、女性(異性)への「愛」。
私は子どもの時に、ベルばらを通じて、イエスさまの「愛」を間接的に知っていた。池田理代子さんがクリスチャンかどうかはともかく、フランス革命を描くためには聖書を読む必要があったと思う。オスカルやフェルゼン、アンドレが、自分の命をかけて愛を証明する、愛を表現していることに、子ども心に感動したのは、イエスさまの言葉だったからではないのか。
じゃ「愛」って命がけなの?
これまた難問だな…🤔
次回に続く