結婚以来、Hの実家から大宮は近かったので、義父が仕事帰りによく遊びにきた。
「ユカちゃん、そろそろ…どうなの?」
と、顔を見るたびに義父は言う。
そのたびに、私は笑ってごまかしてはいたが、義父にしてみれば、長男の孫の顔を早く見たいという心情は理解できた。
私とHは結婚を決めた時に、子どもは作らないことで意見が一致していた。
なぜか。
二人で創造的な仕事をして、有意義な時間を過ごしたかったからだ。
そして二人とも子どもが苦手だった。
しかし、子どもについての議論をしたこともなく、お互いにわかり合っていると思い込んでいただけなのだ。
私たちは、音楽も映画の趣味も同じ、社会に対して怒ることも同じ、起業した時も同じ方向を向いていた。いつも一緒にいるだけで幸せだった。
二人は融合してしまって、一つの身体、一つの精神になっていて、今さら何を確認することもなく、あうんの呼吸で生きている、そう思っていた。
私はある日、何気ない雰囲気でこう言った。
「高齢出産って、初産の場合35歳からなんだって。私33だしね。そろそろ子ども作るってどうかな」
私は、何気ない雰囲気を装ってはいたが、明らかにオドオドしていた。
「はぁ?何言ってんの?」
Hは、驚きを隠せない、信じられない、そんな顔をして私を見た。
「だからさ、高齢出産だと障害がある子が産まれたり、テレビで見たんだよね。大変らしいのよ。だからそうならないうちにって」
「あのさ、子どもはいらないって、お互いその方がいいって納得してたじゃない。何を今さら…。」
私はもうそれ以上、何も言えなくなってしまった。
気まずい雰囲気がさらに空気を重くして、私は黙ってリビングを出た。
私は、16歳のあの時以来、自分が母親になる姿など、想像したこともなかった。
17歳のNが望んだ、二人で子どもを育てて、幸せな家族を作る夢。
その夢が壊れてしまってからは、家族という幻想に封印したのだ。
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「Hのお母様とお父様って、私が描いてた理想の親なんだよね。妹さんも美人で可愛いし。理想的な家族。一緒にいると楽しいし、ご両親も私のことをホントの娘みたいって言ってくれるのよ」
20代の頃からのバンドの友人Yとランチをしている時に、私はそんなことを話した。
「Hと結婚した理由って、もしかしたらHの家族の仲間に入れて欲しかっただけかもしれないね」
Yは、私の話を聞いて、思わず泣いた。
「え?なんで。泣かないでよ…」
Yは、私の親のことや、子どもの頃から家族が崩壊していたことをよく知っていたから、私がどれだけ幸せな家族が欲しかったかを瞬時に理解した。
私は、『本当の意味』での家族をHと一緒に作りたい、だから子どもが欲しいと思ったのかもしれない。それは、私の子どもの頃からの家族への歪んだ切望とでも言うのか、子どもを産んでもっと強固な家族を作りたい、崩壊寸前だった私とHの関係性を修復したい、そんな浅はかな考えだったのかもしれない。
でも、これだけは言える。
他の誰でもいいわけではなく、Hの子どもが欲しい、そう思ったのだ。
そしてそれは、これまでの人生を通じて、N以来、Hだけだった。
今では何が理由で、傷つけあったのか、思い出せない。記憶に残っていない。
ただ、幸せだった時のことだけが鮮やかに蘇るだけだ。
2人で企画したライブハウス結婚式。
ROCKバンドでステージに立った。
イベントで訪れた、たくさんの街。
震災前の神戸、大阪、有馬温泉。
Hの家族と行った温泉旅行。
そして、
BOSS失踪で苦しんだ日々。
Hと猫たちと大宮のマンション。
今も忘れない。
私は人生で一番幸せな時を、
Hと一緒に大宮で過ごしたのだ。
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数年前に観た映画のワンシーンに、幸せだった頃の二人が重なった。
映画の中に私たちが居た…。
映画「アリー/スター誕生」
Always remember us this way
1996年8月末。
私は猫5匹と共に、
大宮に別れを告げた…。
Crime of Love 大宮編 (完)