新約聖書『コリント人への手紙1 』13章4-7の使徒パウロの言葉。
愛は寛容であり、愛は親切です。また人をねたみません。
愛は自慢せず、高慢になりません。
礼儀に反することをせず、自分の利益を求めず、
苛立たず、人がした悪を心に留めず、不正を喜ばずに、真理を喜びます。
すべてを耐え、すべてを信じ、すべてを望み、すべてを忍びます。
聖書を読み始めた頃、この聖句が心に刺さって、愕然とした。
愛って、なんだ…?
あの2月の悲しい日、ガサ入れに来たH先生は、私たち2人が不純異性交遊(70年代の名称である…今では死語🤣)とやらの現場を押さえるつもりで踏み込んだに違いない。そして継母がその手引きをしたのだ。
しかし、大人たちの下世話な期待に反して🤭私たちはkiss以上は何もしていない。
確かに、Nは私に会うまでに何人も女がいた。2人で街を歩くと、よその制服の不良女子たちが寄ってきて、親しげに言葉を交わす、そのたびにヤキモチを焼いた。しかも一人や二人じゃない。誰かを妊娠させたと言う噂もあった。だから、私もその覚悟と期待をしていたし、むしろ愛しているなら自然なこと、そう思っていた。
だけど、Nは私を欲望の対象にはしない、俺が一人前になるまでは我慢する、そう言って、頑なに守り通したのだ。二人で夜遊びをしたこともないし、夕方になれば必ず私を駅まで送って家に帰した。
Y子のアパートで一緒にベッドに入った日も、Nは私を抱きしめるだけだった。
あの頃の私たちは、大人たちに、何ひとつ信じてもらえなかったのである。
そして、あの春の日の早朝、
私は確信した。
Nはもう私のところには戻って来ない。
私たちは、愛を諦めた。
諦めたんだ。
あんなに愛していたのに。
愛していたからこそ、
諦めた。
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梅雨に入った頃、私は病院のベッドで、Nと再会した。
彼は私の手を握って、淋しそうに微笑んでいた。
困惑した表情が痛々しくて。
それは、私が見たNの最後の姿だった。
私が真剣に愛した人は、
人生でたった一人、
17歳の彼だけだ。
今、ようやく理解できた。
聖書でパウロが語った「愛の定義」を体現し、愛を与えてくれた人はNだったと。
これほど大きな愛を与えられたにもかかわらず、16歳の私はなんて愚かで身勝手な人間だったか…。
目を閉じれば、Nと歩いた街、喫茶店や、レコード店や、映画館が、色鮮やかに蘇る。
彼と一緒に休み時間を過ごした学校の廊下や、マラソン大会を二人でサボって隠れた物置の裏、一緒に歩いた駅までの道。
人間の脳は驚くべき機能がある。
そこに愛が存在した記憶は、決して色褪せないという事。
それ以外は、ハッキリ言ってどうでもいい記憶である。
愛だけが真に価値ある記憶なのだ。
最後に、80年代ROCKと全然関係ないユーミンの『リフレインが叫んでる』を西城秀樹がカバーしてる動画を貼りました🤣
めちゃくちゃROCKしてるから聴いてみて!
こんなにROCKしてるヴォーカリストが日本にいたのか!と驚いた…。
最後は和製ROCKで締めます🙌
あなたは、
誰かに、
愛していると、
真剣に伝えたこと、
ありますか?
Edge of Sixteen (完)