なぜ私はみつ子の手を離したのか?
4月16日、喘息のようにゼェーゼェーと息をして息苦しそうにしていたみつ子を、つだ動物病院で診察をしてもらったが、いつもの女医も院長も不在で、院長の奥さんが、みつ子の診察をした。この日、初めてのことだった。
応急処置として点滴をしてもらって家に帰ったが、一向に改善せず、翌日17日の朝、再び病院を訪れた。
名前を呼ばれて診察室に入ると、いつもの女医でもなく、昨日の院長の奥さんでもなく、初めて見るインターンのような若い女が立っていた。
「どうされましたか?」
女は、いきなり強い口調でそう言った。
「あの、昨日診察していただいた院長先生の奥さんはいらっしゃらないんですか?」
「今日はいません、私が診察します。で、どうされました?」
まくしたてるように、早口で言う女。
「昨日、院長の奥さんに診察していただいたんですが…、えーと、あなた、みつ子のカルテ見ないんですか?」
この女が、手ぶらでいることに疑問を持った私は、女に言った。
「あ、見ましたよ。で、どうされたんでしょうか?」
「いや、そうではなくて、今、ここでカルテを見なくて大丈夫なんですか? 見なくてもみつ子の様子がわかるんですか?」
「さっき、見ましたからわかってます」
「じゃ、どうして、どうされましたか?って聞くんですか? 院長の奥さんが昨日の段階でカルテに書き込んだことを読まれたんですよね?」
「はい、読みましたよ」
「じゃ、どうして今ここにカルテを持ってないんですか?」
「見なくても覚えてますから、大丈夫です」
「あなた、本当に医者ですか? インターンじゃないんですか?」
「私は医者です。あとの患者さんも待ってますし、診察しますね」
女は、みつ子をキャリーから出すように促した。
私は、この段階でここから去るべきだったのだ。
この女が医師免許を持ってるのか、そうでないのか、そんなこと問題ではなく、この女の態度が人間として問題だったのだ。そこに気づいていながら、なぜ…。
私は、この場面を何度も思い出し、
何日も何週間も何ヶ月も何年も後悔した。
この女に、みつ子を触らせるべきではなかったのだ。
みつ子をキャリーから出すと、いつものように私のお腹に頭を押し付けるみつ子。
いやいやをしながら、グイグイと私のお腹に顔をうずめてくる。
力いっぱい、押し付けてくるのだ。
女がみつ子を触診するために、体を引っ張ると、みつ子はさらに力を込めて私の腰にしがみついた。
「みっちゃん、体温測るだけだからね、大丈夫だよ、ね、みっちゃん、がんばろうね」
女は無言で事務的に手を動かしていた。
そして、触診をしたあと、こう言ったのだ。
「では、レントゲンを撮りますので、あちらでお待ちください」
「え? ちょっと待ってくださいよ。昨日の院長の奥さんの話では、みつ子はてんかんの発作があるので、落ち着いてからレントゲンを撮りましょうって話になったんですよ。今、この状態でレントゲン撮るって、ちょっとまずくないですか? 息苦しくて呼吸もできない状態なのに、大丈夫なんでしょうか?」
「しかし、レントゲンを取らないと処置する方法を判断できないんですよ、昨日、点滴をしても改善しなかったんですから、レントゲンを撮ってみないと、わからないじゃないですか」
あー、私はこの段階でも、ここを去るべきだったのだ。
なぜ、ここに留まってしまったのか。
それは、前日の治療費を後払いにしていた負目があったに違いないのだ。
「あの、別の先生に診てもらいたいんですけど。あなたじゃ話になりません」
「今、他の先生方もみんな診察していて、手があかないんです。どうされますか?」
「みつ子はずっとてんかんの発作で投薬治療しているんです。だから、レントゲンは落ち着いてからって院長の奥さんが、昨日言ったんですよ。今のみつ子の様子を診て、レントゲンを撮っても問題ないと判断できるのですか?」
「はい、ですから処置の方法を探るためにもレントゲンを撮らないと、処置のしようがないんです。それとも、別の病院に行かれますか?」
私は、ここに留まるべきではなかったのだ。
なぜ、この女にみつ子の体を触らせたのだ!
「そうですか、それじゃレントゲンを撮ることによって、適切な処置ができると断言されるんですね?」
「とにかく、今の段階では処置のしようがないんです」
私は、この女と口論している間にも、みつ子の容態が悪化することを懸念して、妥協することを選んだのである。
それは、人生で最大にして最悪の決断だっだ。
「わかりました。みっちゃん、だいじょうぶだよね。ちょっとで終わるからね」
私はみつ子を診察台から抱き上げて、一旦、ぎゅっと抱き寄せて、「みっちゃん、大丈夫だからね」と言った。
そして私は、みつ子を背中側から、この女に渡そうと手を伸ばした。
女も手を伸ばして、みつ子を受け取ろうとした時だった。
いや〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜ん!
みゃ〜〜〜〜〜〜〜〜ん!
みゃ〜〜〜〜〜〜〜!
みつ子は、ぎゅーっと私に手を伸ばして、私のセーターに爪を立てたのである。ひっかかったみつ子の爪は、渾身の力で私を引き寄せたのだ。
女は無表情のまま、みつ子の背中を掴んで、私から奪い取るようにみつ子を抱きかかえた。
みゃ〜〜〜〜〜〜〜〜!
ぎゃ〜〜〜〜〜〜〜〜!
みつ子は、女に連れ去られながら、必死に手を伸ばして、私に訴えた。
ママ〜〜〜〜、私の手を離さないでよ、ママ〜!
To be continued….