1999年8月。
私は沖縄・小浜島にいた。
6月から取材記者として単発の仕事を始めた私は、フリーランスというよりは、出版社に半分所属しながら1本ずつギャラをもらって生活していた。
時間は自由に使えるが締切厳守だから、無駄な動きはNG。そんな働き方も、今となれば懐かしい。
この沖縄取材旅行は、のちの私に大きな影響を与えた仕事だった。初めて立つ沖縄の地で、目の前に雪崩れ込んでくる沖縄の現状に圧倒され、困惑し、日本人として私はどうあるべきかと、考えることになる。
沖縄での取材は、ある沖縄出身のアイドルグループの身辺取材で、それらを元に執筆する著者のための資料まとめだ。おおよその原稿を書き起こし、周辺写真を撮影。
私はこの出版社に雇われてから、この手の仕事をいくつかこなしたのち、沖縄に来ていた。
最初に訪れたのは、小浜島だ。ここにはメンバーの一人の両親が民宿を経営していたので、宿泊を兼ねて取材を申し入れた。
のんびりとベンチに腰掛けていたお巡りさんに声をかけると、
「自分が赴任してからは、一件も事件なんてありませんよ。暇で暇で…」
と、豪快に笑う。
アポを取った取材先に行くと、誰もいないのに、玄関の戸が開けっ放し。
「あー、すみません、ちょっとそこまで用事があって」
と家主が帰ってくる、鍵をかけてないことを言うと、
「鍵なんて誰もかけませんよ。島の住人はみんな顔見知りだし、用心するようなこともありません」
と笑い飛ばされる。
まったく、すごい島だ。
※しかし、これは24年前の話。今はどうだろう?
私は写真撮影で島を移動するためレンタルバイクを調達。4輪の免許を持っていないので、オートバイしか運転できない。自動二輪の中型を20代で取得、SUZUKI GSX250Eは、すでに売っぱらってしまい、そのあと乗ったYAMAHAのオフロードバイクも、廃車。それ以来、私はずっと運転していなかったので、10年ぶりくらいだったかもしれない。
私は、小浜島をレンタルバイクでゆっくりと走り回った。
その日すれ違った車はたったの3台。しかもすれ違いざま、みんな楽しそうに笑って挨拶していくのである。バイクで大岳(うぶだき)に向かう。島内で一番高い山。そこに登って、絶景ポイントから撮影したり、砂浜に出てエメラルドグリーンの海を撮影したり。
とにかく小浜島での取材は、心が洗われるような思いで、心底楽しかった。
小浜島取材最終日、民宿のご主人は私を船に乗せて浜島(幻の島)に連れて行ってくれた。
冒頭の写真は、私が撮影したものではないが、圧倒的に素晴らしい光景だった。
取材の写真はネガも紙焼きも全部提出してしまってるので、この浜島の写真も手元にない。しかし、個人的な写真は残してあったはず。なのだが例のごとく見つからない。唯一、民宿のワンちゃんの写真は残してあって、きっと私に懐いてくれたので、可愛くて撮影したのだろう。
こうして、小浜島からスタートした取材は、那覇・首里城から、国際通り、浦添、宜野湾、北谷、嘉手納、読谷…、徒歩とタクシーとバスで移動しながら取材を続けた。
移動しながら、そこで見た風景…。
延々と続く金網と有刺鉄線。その向こうは米軍基地。
この小さな島に、敢然と立ちはだかる米軍基地に、私は異常な違和感を感じた。
小浜島の、のどかな風景とは180度違う、米軍と沖縄を隔てる延々と続く金網の光景。もしも最初に観光で沖縄を訪れていたのなら、私はこれほど居心地の悪い思いをしなかっただろう。
私は沖縄取材を最後に、再び出版業界から遠ざかる。
今思えば、沖縄での衝撃で心が疲れてしまったのかもしれない。また、ある種の充電期間だったのかもしれない。
Walking on thin ice だった私は、ようやく渇いた陸地を見つけ、そこに降り立とうとしていた。そして、あらたな道を模索し始めたのである…。
Walking on thin ice (完)